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CITROËN 横浜緑

住所〒226-0016
神奈川県横浜市緑区霧が丘2-8-1
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TEL045-924-3677

営業時間10:00-18:00 

定休日火曜日・水曜日(祝・祭日を除く)

アクセス方法■お車でのアクセス
 ●東名横浜町田出口を国道16号(横浜方面)に進み
  1つ目の信号「卸センター入口」交差点を左折
  1つ目の信号「滝沢」交差点を右折(環状4号線)
  直進3.4Km左側
  スーパー(ビッグヨーサン様)を過ぎたら減速してください。
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 ●JR横浜線・十日市場駅前より大和・相模原方面
  直進1.2Km右側
  しゃぶしゃぶの(木曽路様)を過ぎたら減速してください。
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 ・JR横浜線 十日市場駅
  東急田園都市線 長津田駅
  どちらの駅も改札を出たらお電話ください。
  当店よりお迎えに伺います。

スタッフブログ

トラクシオン・アヴァン≪アーカイブ≫

[2020/07/08]
天野 恭太郎(あまの きょうたろう)
こんにちは、天野です
一部のコアな人たちにだけ好評!≪アーカイブ≫シリーズです

今回は2017年5月17日、5月25日、5月30日、6月2日、6月13日、6月20日
6回にわたってシトロエン中央のブログに書いた「もうすぐ100年、ちょっと昔の事」
というシリーズの文章を加筆、修正して再構成しました。

結果的にトラクシオン・アヴァンの話が多かったのでタイトルも変えて
新興自動車マニファクチュアラーだったシトロエンがフランスでのし上がっていく過渡期のお話です。

それではどうぞ!
トラクシオン・アヴァン≪アーカイブ≫
我らがファウンダー:アンドレ・シトロエンがジャベルの川っぺりに生産工場を作ったのは第一次世界大戦中です。

アンドレさんは砲兵大尉として戦争に行きます、その時フランス軍の弾丸が足りないことを痛感し司令部にかけあって「1日5万発作る!」という約束で軍に(政府に?)作ってもらったそうです
ここでアンドレさんはフォードが自動車でやっている流れ作業の組み立てを砲弾作りに取り入れ生産量を確保、戦後軍需産業で得た資金を元手に自動車会社を始めました。

会社の名前に自分の名前が残っていますし、ヨーロッパに自動車の量産をもたらした功績は大きいですが、
ムッシュシトロエンの拡大路線がたたって1934年会社は経営破たん

ミシュランが資本参加して倒産は免れますが、ミシュランの経営参加の条件はムッシュシトロエンの退任!

創業から15年シトロエンはシトロエン社を去り、翌年胃がんを患い亡くなりました。
(個人的には、シトロエンの死は政権を追われて、スターリンに好きにやられてる母国を憂い悔しさのあまり血の涙を流して死んだと言われるレーニンをなぜか思い出すのです)

その後会社は何度も危機を乗り越え75年に同じフランスのプジョーと合併、現在に至ります
(今ではフィアット・クライスラーと経営統合ですもんね、時代は動いています)

オートモービルシトロエンは昨年で100周年
シトロエンという名前は付いていますが、シトロエンのシトロエンだったのはたった15年です。
それではシトロエンという自動車のシトロエン足りえているのは何か?
トラクシオン・アヴァン≪アーカイブ≫
シトロエン車の経営破綻に関しては世界恐慌の時流を読み誤った
というのが一般的な評価だと言われていました
ただ、自社の車を進化させるための準備を進めている最中だったことは間違いがありません

トラクシオンアヴァン 世界初の量産FF車であるこの車はシトロエンが社運をかけて(最終的には自分の命をかけて)準備を進めていた新機軸です

この車両は前輪駆動車というだけでなく、量産車として新しい技術をたくさん盛り込んで計画されました
モノコックボディ、フロントダブルウイッシュボーンサスペンション
トレーリングアームリアサスペンション
等速ジョイント、油圧ブレーキ、新型OHVエンジン
ギアボックス(当初はATの採用が考えられていた!!)
ラックアンドピニヨンステアリング

おそらくアンドレシトロエンは当時の最高水準の車を作りたかったのでしょう
現在当たり前にクルマについている技術が多くこの車で初めて量産されようとしていました
そのためにジャベル工場を大改装しアメリカなどから多くの工作機械を買い付けてトラクシオンの発売をうかがっていました。

ライバル(当時)のプジョーやルノーが自社工場の近代化をすでに済ませており自分たちの資本だけで世界恐慌を乗り越えられたのに対し
シトロエンは世界恐慌が工場の改造にもろかぶってしまった上に、アメリカ型の近代ビジネスを標榜していてマーケットに多く資本を募っていたことも悪いほうに傾いた要因になりました。


アンドレシトロエンが会社を去った後、社長になったのがピエールミシュランです

ミシュランは今も昔も堅実なタイヤメーカーですので、アンドレ・シトロエン株式会社をアメリカ資本に売却することも考えたそうです
ただ、トラクシオンアヴァンの出来上がりを見て、傘下にすることを決めたと言われています。

ただ、当時からプジョーやルノーの国内メーカーに多くタイヤを供給していたミシュランにとっては自社で自動車製造部門を持つという事には抵抗があったようで、シトロエン社はアンドレ・シトロエン株式会社という名前のまま別会社として存続することになりました。

そのころはまだ革新者としてのアンドレシトロエンが有名人だったこと
ナショナルジオグラフィックとの共同で行ったアフリカやアジアへの冒険旅行のネームバリューなどを無視できなかったのかもしれません。

ここで会社の名前が変わっていたら現在シトロエンというブランドは無かったかもしれません。


ミシュランはアンドレシトロエンの考える工業製品メーカーはイノヴェーターたれという哲学に共感していたとも言えますし、シトロエンというブランドの持つ哲学に挑戦する気持ちもあったのだろう、と書いた本もありました。
トラクシオン・アヴァン≪アーカイブ≫
ピエールミシュランの後を継いでシトロエンの3代目社長となったのがこの人
ピエール・ブーランジェさんです1938年から1950年まで就任しました。

ピエールミシュラン時代の副社長を務めピエール・ミシュランが事故で亡くなった後会社を引き継ぎました。

2CVの父と言われるブーランジェと技術者アンドレ・ルフェーヴルのミシュラン傘下の黄金時代の幕開けです。

そして現在まで続くシトロエンという自動車のアイデンティティに色濃く影響を与えているのがこの時代の車たちなのです。
トラクシオン・アヴァン≪アーカイブ≫
これは伝記本の表紙ですかね?

この写真にあるようにこの人はシトロエンでトラクシオンアヴァン、2CV、DSの開発に携わったエンジニアデザイナーです。
1894年生まれ、元々は航空機の技術者で第一次世界大戦時にはヴォアザンという航空機メーカーに勤めていました

ヴォアザンは飛行機の黎明期にヴォアザン兄弟によって作られたフランスの航空機メーカーで第1次世界大戦中にはフランスの海軍向けに多くの複葉機を生産しています
戦後1918年ヴォアザンは航空業界から撤退、自動車作りに転業します
ルフェーヴルはヴォアザンの自動車開発で中心的なポストにいた様です

ヴォアザンという会社は面白くて
戦後はプレハブ住宅なんかも作っています
自動車会社時代にはウッドとアルミで作られたモノコックのレーシングカー
(ヴォアザン・ラヴォラトワール、すごい形です!)
で1923年のグランプリでルフェーブルが完走しています。

芸術肌的な技術者、ガブリエル・ヴォアザンの下で航空機から自動車まで開発に携わったルフェーブル(テストドライブもこなしレースにまで出ていた!)にはヴォアザン流のエンジニアリングが染みついていたのでしょう。

ルフェーブルをアンドレ・シトロエンに紹介したのはガブリエル・ヴォアザンだったことを考えるとこれは運命か、必然か?

実際トラクシオンのモノコックも2CVも航空機のロジックで作られたとしか思えない、およそ従来の自動車らしからぬところがあります。

ブーランジェもミシュランもルフェーブルも第1次世界大戦で飛行機の虜になっていて、飛行機的なものに未来を見ていたのかもしれません
トラクシオン・アヴァン≪アーカイブ≫
アンドレ・シトロエンが前輪駆動車の開発を考え出したのは1931年のアメリカへの視察旅行だったと言われています

従来の後輪駆動の自動車で充分!アメリカのビッグスリーは新しい方式の自動車開発には消極的でした
それに対しヨーロッパでは経済的にも脆弱でガソリン節約の必要性が高く、自動車の普及率も低かったことから、小型、軽量で経済的な新しい車の導入こそが自動車を増やす方法だと考えられたようです

フォルクスワーゲンに代表されるドイツはリアエンジン後輪駆動車を、我らがシトロエンは前輪駆動車を模索したわけです

さらにその前、フランスにはトラクタという自動車会社が前輪駆動車を量産しています

最終的にはアメリカのシャーシメーカーのパッド社、フランスのトラクタ社、さまざまな技術者との交流ののち、トラクシオンアヴァンは生まれたと言われます

ヴォアザンから来た伊達者アンドレ・ルフェーブル(飲み物は水とシャンパンしか飲まなかったそうです)彼が参加してトラクシオンアヴァンは発売にこぎつけられます

フラミニオ・ベルトーネデザインの流麗なデザイン、低くフラットな床、後部座席の広々感、トラクシオンアヴァンはフランスでセンセーションとなります

FFにする目的としては床下にドライブシャフトを通す必要が無いため
床を低く出来、ホイールベースの自由度が高く、居住性を確保できる
という事ですが
アンドレシトロエン的にはエンジンと前輪、モノコックと後輪それぞれ別々に作り、ラインでドッキングさせるという作り方によって量産の効率をあげられる、というのが大きな魅力だった気がします

そのために彼はアメリカから工作機械を仕入れ、ジャベル河岸の工場をトラクシオンの為に大改造し、大恐慌の波をかぶって、会社を傾けてしまい
大口株主だったミシュランに経営譲渡、トラクシオン発売の翌年、病気でこの世を去りました。

ふたつの大戦の間に生まれ、戦後まで改良を重ね作り続けられた時代を代表する車です。

映画「インディアナジョーンズ・最後の聖戦」で主人公がナチスの追跡から逃げるために道端でパンク修理をしていた農家のおじさんのトラクシオンを盗むシーンがありました。
要するに大衆車として広くヨーロッパ中で売れたのだと思います。


しかしあまりに多くの新しい技術を導入したため、トラブルが続出、それを辛抱強く改良し23年に渡るロングセラーにしたのはミシュランです
トラクシオン・アヴァン≪アーカイブ≫
この本は80周年記念で発売されたもので90周年の時も同じような本が作られましたが、モデル別に解説をつけたこの本のほうが見やすかったです。

トラクシオンは7が88066台、11が620455台
4年遅れで投入された15が50602台作られました

当時ライバルのプジョー402の流線型(未来派です、マリネッティです!)に比べるとトラクシオンはかなりクラッシックに見えます。
逆を言えば変える必要が無かったとも言えますし、モノコックの作製の方法を考えると変え辛かったのかもしれません

しかしながら23年間ほとんど形を変えずに作られたトラクシオンはその後FFの車が世界を席巻することを考えると、イノベータ―としてのシトロエンのブランドイメージの向上に貢献したと言えます。

戦前のフェンダーが独立した形の自動車ではこんな車高の低い車は他にありません。

町でトラクシオンを見ることはまずありませんが、走っている姿は本当に美しく見とれてしまいます。
トラクシオン・アヴァン≪アーカイブ≫
アンドレ・シトロエンが考え、ミシュラン傘下でピエール・ブーランジェとアンドレ・ルフェーブルが作り出して、ミシュランが育てた
トラクシオン・アヴァン(前輪駆動という意味)は世界の自動車のエポックとなり
(最終型には後輪にハイドロニューマチックを搭載したモデルまであったそうです)
シトロエンの名前を世界に知らしめることとなりました。

シトロエンはこれ以降は基本FFの車しか作っていませんし(競技車両や量産車の一部に4輪駆動はあった)シトロエンはFFのメーカーです。
今や世界の多くの自動車会社がFFのレイアウトを採用して、乱暴なくくり方をすると全部トラクシオンの子孫たちです。


僕はいつも「シトロエンらしいものなんて無い」って思っているのですが
変化を恐れず、変わり続ける、人まねを嫌い、イノヴェーターたれ!
アンドレ・シトロエンの精神は100年を超えて、変化を続けながら、やっぱり私たちの愛するこのブランドに息づいているのです。


切ったり貼ったりしながら6回分を1回にしたのでやっぱり長いですね
ここまで読んでいただいた方に感謝!
天野でした。